この部屋の窓から私たちは、どれだけ月を見上げたのだろう。どれだけ、月を愛でたのだろう。
「……平和だぁー。」
ある昼下がりのこと、七夜(しちよ)あずきはリビングのカーテンを開けながらつぶやいた。いささか寝過ぎたのだろうか、髪は寝癖が目立ち、未だ眠そうな表情も相まって彼女の童顔を際立たせていた。
「さてと、良く寝たことだし、遅めのお昼に紫春(しはる)のカフェにでも行こうかな。」
ぐん、と伸びをすると、彼女は支度を始める。艶のある黒髪は、高めの位置でお団子にする。グレーのパーカーワンピを着て、芥子色のカラータイツの上にレース地の靴下をはく。全身鏡でくまなくチェックし、自分自身に合格二重丸、とつぶやく。仕上げにメイクをしていく。今日はランチに行くだけなので軽めに。下地を塗ったらリキッドファンデーションを部分的に塗り、なじませる。フィニッシュパウダーをブラシで軽くのせてアイブロウをする。あずきは黒髪なので暗いブラウンの太ペンシルを愛用している。休日なのでアイシャドウはピンクベージュ、アイラインはブラウンでやさしいイメージにする。ビューラーでまつ毛をあげて、マスカラでまつ毛を伸ばす。もっと伸びろ、僕のまつげ。高めの位置に丸くピンクのチークをのせ、自然なピンクのグロスを塗る。
「うん! 今日もばっちりかわいい!」
鏡を見て自己評価もテンションも高めで大きな独り言を吐く。お気に入りのスニーカーを履き、家を出る。しっかりと鍵をかけたかを確認していざカフェへ。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
研修中の名札を胸に付けた青年に人数を聞かれ、一人ですと伝え席へ案内される。こぢんまりとした店内は、ところどころ片付いていないテーブルがあり、先ほどまでランチタイムのピークを迎えていたであろうことが窺える。ラストオーダー二十分前の来店なのだから当然と言えば当然なのだが。
「さて、今日は何を食べようかなぁ」
見慣れたメニューを開き、ふむ、と一通り目を通す。前回食べたのは、茄子とベーコンのアーリオ・オーリオ。前々回はキノコとシーチキンの和風パスタ、前々前回はシェフの気まぐれオムライス。今日の気分は麺より米なので、ライスメニューを重点的にもう一度見ていく。チキンオムライス、エビピラフ、ミートドリア、カレーライス……。完全に脳みそが何を食べたいのかわからなくなっていた。
「決めた。今日はガパオライスにしよう」
自棄になって決めたランチだが、そうと決めた瞬間に彼女のお腹はガパオライスモードになるのだから、何とも都合の良い体である。さっそく、注文しようとそばにいた店員さんを見上げる。
「紫春。おはよ、ガパオライス」
そこにいたのはあずきの同居人、もとい恋人兼婚約者の九重 紫春(ここのえ しはる)だった。
「何がおはようだ、この寝坊助。もう一時四十五分だぞ? まさかさっきまで寝てたんじゃないだろうな?」
呆れた目をしてあずきを見ながら、怒りきれない様子で言った。
「ガパオライス!」
これっぽっちも話を聞いていない。聞いていないフリなのだが。
「大体、紫春が悪いんだよ! 紫春が昨日、私を寝かせてくれなかったんでしょ[V:8265]」
注文したかと思えば、突然紫春に抗議し始めるあずき。
「おい、でかい声で人聞きの悪いこと言うなよ、誤解が生じるだろ。言い回しが紛らわしい!」
突然の爆弾発言に、紫春は慌てたようにあずきを黙らせる。
「えー、だってほんとのことじゃんかさぁ。ってゆうか、ガパオライス!」
紫春にブーイングをしつつ三度目の注文をする。
「あれは! あずきが観たいって言ってたから借りてきたんだろ[V:8265] 大体、寝られなくなったのは、自分があのインド映画を観て一人でテンションあがって踊りを覚えるって言って朝方まで踊ってたからだろうが! あとガパオライスはもう通したから!」
「……紫春、皆まで言うな」
「既に皆まで言ったわ」
ぶーぶーとうるさいあずきを宥めつつ、これ以上あずきの戯言に付き合っていたら店長に怒られると思い、仕事に戻ろうと踵を返す。そんな紫春の後姿を、愛おしそうな目で見つめつつ、あずきはお冷をズズっとすするのだった。
「お待たせ致しました、ガパオライスです」
そう言って、紫春がサラダとスープも一緒に持ってくる。シャキシャキのフリルレタスやリーフレタスと共に鮮やかなラディッシュや人参、プチトマトが彩りよく飾られているランチサラダはランチセットのちょい盛りサラダとは思えない存在感だ。スープはコーンポタージュで、こちらも滑らかなスープの舌触りとカリッとした触感のクルトンが絶妙なバランスで、レギュラーメニューにしてほしいとあずきは思っている。ガパオライスにもサラダとコーンスープか。と思われるかもしれないが、ガパオライスは実は裏メニューなので本来ランチでは提供していないのだ。アンバランスなのはあずきも承知済みであるし、店長も紫春もあずきがこのカフェのコーンポタージュの大ファンなのを知っているので、敢えてスープを変更したりはしないのだった。
「おー、これこれ。いただきまーす」
ほくほくした顔をしながら料理たちの写真をスマホに収めると、サラダ、スープ、ガパオライスの今度はあずきのお腹に収めていく。
「相変わらず、ここのランチ美味しすぎでしょ。幸せが過ぎるな」
もぐもぐ、もぐもぐと、どこぞの栗鼠の如く絶えず口を動かして食べ進めていく。閉店十分前に、追加で頼んだマンゴープリンまでを全て平らげたのだった。もちろん、追加注文の時、紫春に「太るよ?」と嫌味を言われたのであるが。
「店長、今日もご馳走様でした! 美味しかったです! ご飯代は紫春のお給料から天引きしておいてください」
さっき太ると言ってきたお返しだ、とばかりに店長に対して朗らかに言う。店長も、わかったとばかりに笑顔でうなずき、親指を立てて見せた。焦るのは紫春のみである。
「げ! 店長、そりゃあないですよ。あずき、最初からそのつもりだったな?」
ふふん、とドヤ顔で紫春を見てくるあずきに、やられた、と諦め顔で見返すと、彼女の頭にポン、と手をのせた。そんな紫春に
「さて、それじゃあ私はお家に帰りますかね。紫春、今日そんなに遅くないんでしょ? ご飯作って待ってるよ」
と、のせられた手を両手でどかし、にぎにぎしつつ上目づかいで紫春に言ってそれじゃあね、とお店を一人出たのだった。
「ふいー、ただいまーっと。お腹いっぱいだあ。掃除機かけて洗濯物でもするか」
お腹いっぱい幸せいっぱい、ついでに活力もいっぱいになったので、意気揚々と家事を始める。鼻歌交じりに家事を片付け、夕飯のメニューを決め、下ごしらえを始める。今日はハンバーグにしたので、挽き肉を解凍し、玉葱をみじん切りにする。玉ねぎを炒め冷ましている間にデミグラスソースを作る。鼻孔をくすぐるデミグラスソースの香りに、ふと、あずきが紫春と出会ったころのことを思い出した。
CloudyLapineとして制作した初めての合同誌。ぴょんと東雲さんが描くクララピ初のラブストーリーとなっております。
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